2021-05-31 第204回国会 参議院 決算委員会 第8号
それ一年だけ、その年でこの七十年間の間に多分一年間、その一年だけだと思いますけれども、おっしゃったように災害対策予備費というのがそのときに創設をされたというのが多分大きな理由だったんだと思っておりますけれども、この災害対策予備費は一般対策の予備費に加えて、これ、まあ、あの頃はジェーン台風やいろいろ災害の多い年ではあったんですけれども、その性質上、国会開会中においてもこれは緊急支出を要する場合というのが
それ一年だけ、その年でこの七十年間の間に多分一年間、その一年だけだと思いますけれども、おっしゃったように災害対策予備費というのがそのときに創設をされたというのが多分大きな理由だったんだと思っておりますけれども、この災害対策予備費は一般対策の予備費に加えて、これ、まあ、あの頃はジェーン台風やいろいろ災害の多い年ではあったんですけれども、その性質上、国会開会中においてもこれは緊急支出を要する場合というのが
私の地元の兵庫県尼崎市でも、少し調べてみましたところ、昭和二十五年にジェーン台風というのがございまして、これで大変に、市内で二万五千戸以上が浸水ということで、非常に大きな被害が出た。
親からは、ジェーン台風やら第二室戸やらと聞いておりましたけれども、では、強い台風というイメージが湧かない。そういうときに、こんなことがあるんだよというような形で、映像や体験や何やかんや、お知らせをしていくというようなことも必要になってくるかと思います。
私自身は、例えばジェーン台風ですとか、あるいは第二室戸ですとか、あるいは伊勢湾台風ですとか、直接に経験をいたしております。淀川のあの大きな堤防が決壊するのを目の当たりにしたこともございます。流されました。最初は、本当に、水道の水がちょうど飛び出すような感じで水が出てくるわけです。
それから終戦後には、二十五年にジェーン台風というのが参りまして、窓のガラスが割れたときに、それを机で兄貴と一緒に押さえていましたら体ごと吹っ飛ばされたことがありまして、そのころは大阪湾はオーバル型、いわゆる卵形でございますから、高潮と一致して大変な被害を受けたことがあります。
また、侵食対策と同時に高潮対策も非常に重要でございまして、実は旧海岸法といいますか、ほぼ四十年前に成立されました海岸法の議論のときには高潮被害が非常に多い、ジェーン台風とか二十八年の台風だとかという状況があったものでございますから、高潮被害の非常に多い地域での高潮堤防の築造というものにも非常に力を入れてきたという経緯もございます。
一方、現在の海岸法が制定されましたのは昭和三十一年でございますが、その契機になりましたのは、昭和二十五年のジェーン台風とか二十八年の台風十三号などによります激甚な高潮災害が契機になったものでございます。
思わず、ジェーン台風の時を思い出した。「あの時は二階まで水につかったが、堤防はこんなに壊れなかった」」というふうに生々しく語っておられます。 この新聞報道では、当日、一月十七日の夜七時、満潮で水位は崩れた堤防の上端まで七十センチに迫っていたと。これは本当に亀裂が入ったらもう終わりだ、決壊する危険性が迫っていたということなんですね。
○政府委員(松田芳夫君) 今お話がございましたが、この細川内ダムというのは徳島県の南部の那賀川という川に設けられるものでございますが、治水につきましては過去、昭和二十五年の九月にジェーン台風という非常に大きい台風に襲われたのを初め、昭和四十六年の台風二十三号、あるいは昭和五十年の台風六号、あるいは最近では平成二年の台風十九号など、たびたび洪水被害をこうむっております。
昭和二十五年のジェーン台風も、最高水位がOPから見まして四メーター三十。これから国のいろいろな手当てによりまして現在のような町づくりができておるわけでございますが、やはり中年以上の方はこういう大被害を知っておりますので、ちょっとしたことでも非常に心配をしているわけでございますので、この点もよろしく御指導、御協力をお願いしたいと思います。
戦後ももちろん同じことでありまして、毎年のようにジェーン台風だとかカスリン台風だとかいろいろな名前のついた台風が来るたびに、何千人もの命が失われました。しかしながら、その場合には、毎年のことでありますがゆえに、我が国土のどこにどういう欠陥があるかということを学習をし、また手当てをする、さらに強いものにするという機会がいわば与えられたわけであります。
私はちょっと昔の例を引きますが、実は尼崎市で戦後間もなくにジェーン台風という大変大きな台風の被害を受けました。尼崎市はあそこに鉄鋼の工場がたくさんありまして、戦時中に鉄鋼を冷やすための冷却水を井戸を掘ってどんどんやったものですから地盤沈下が起きて、国鉄線南は大体がゼロメートル地帯というふうになっているのです。そこへジェーン台風がどおっと来て南部は人家も被害、工場や商店も被害、大変な被害が出ました。
四七年のキャスリン台風、四八年にはアイオン台風、四九年にはキティー台風、五〇年にはジェーン台風、五一年にはルース台風、五二年にはダイナ台風、これはアメリカがつけた名前でございますが、例年台風が日本を襲ってきたわけでございます。で、引き続きまして五三年には十三号台風、五八年には狩野川台風、そして五九年の伊勢湾台風、六一年の第二室戸台風、こう続いてきたわけですね。
ちょっと前でありますが、昭和二十八年にこれはジェーン台風というのが襲ったときに、これは大変な惨害があって私は当時福井県の青年団の団長をしておりまして、五千人ほどの若い方を動員をしてその地区一体に一週間ほど泊まり込みで救助に行ったことがあります。それは二十八年。
いますが、芦屋市の城山というところ、すでに私、あなたの方に連絡してありますけれども、この地域に五千百三十平方メートルの住宅地造成をやろう、こういうことで、いろいろと芦屋市にも申請し、あるいは県にも申請しようとしておるわけですが、この点について、これはちょうど国有保安林のすぐ下でございまして、しかも、この地域の地質は花商岩の風化したところでありまして、昭和九年の室戸台風あるいは十三年の台風、二十五年のジェーン台風
私も大阪のジェーン台風にあいまして、やはり二メートルぐらいつかってしまいました。これはあっという間です。そういうことで、たとえば今度の川内では、この三年間に三回でしょう。一体、その家がもっと思いますか。普通三十年の寿命の家は十五年しかもちませんよ。一体腰が切れるのですか、人間生活の中で。そういう問題をもっと幾ら最初であろうとも、根本的な掘り下げ方によってそういう災害にも考えていくべきだ。
しかるに、昭和二十五年九月大阪市を襲ったジェーン台風は、営々として復興への歩みを続けていた市民に大きな打撃を与えたのであります。先生は、直ちに被害地に急行し、濁流におののく市民の救援と激励に身を挺し、引き続き被災者の救済に当たられました。この不眠不休の活躍ぶりに市民は心から感謝し、いまなおこれを語りぐさとしているのであります。
前のジェーン台風だったと思いますが、一月か二月おくれて起きたものまで一緒にして、何年六月の災害及び七月の災害を含めて激甚地の資料にしたいということがあったと思います。今度は中一日か二日おいて次々と起こってきた。
○山口(丈)委員 きょうは時間を急ぎますから簡単に言いますが、それから、尼崎等においてはジェーン台風を基準にして防潮堤をつくったので、そしてそれがかさ上げされて、ほぼ今度の台風で試験済みだと思うのです。
○山口(丈)委員 関連で私はちょっと言うておきますけれども、災害関係で、まず建設省では、大阪のジェーン台風、たしか昭和二十五年ころだと思いますが、私はそれからずっと災害ばかり、議員になる前からやっておりますが、あのとき、たしか増田さんが建設大臣をやっておったと思うのですが、緊急の場合の措置として、現地でまだ未査定のうちに、大体見積もりに対してその内金として即決して救済の措置をとられた。
これはいま河川局長の御所信があったとおりでありますけれども、御指摘のとおり、二十五年のジェーン台風の当時と現在とでは相当考え方の進歩があると思います。
○坂本政府委員 大阪につきましては、大阪湾全体でございますが、大阪港につきまして申し上げますと、ジェーン台風がございまして、それに対して災害対策事業というものをさっそく行なったわけでございます。